昭和49年10月01日 朝の御理解
御理解 第18節
「此方のことを神、神と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな神の氏子じゃ。生神とはここに神が生れると言う事で、此方がおかげの受け始めである。皆んなもその通りにおかげが受けられるぞ。」
合楽示現活動に参画させて頂いて、一人でも多くの人に、神様を信じての生活が出来れる。言うならば一人でも多くの人が、生神を目指して日常生活が出来る様に願わせて頂く運動が、所謂合楽示現活動。それに参画する事だと私は思います。世界中の氏子言うなら人間に、神の氏子である事の自覚を促す。そして愈々生神。生神と言う事は、ここに神が生れると言う事であってと言うておられますから、心の中に有難い勿体ないという心を、愈々作り育てて行くと言う事だと思います。
愈々有難くならせて頂く稽古。それが生神に向かう。しかもその有難いというのが一年一年。言わ、有難うなって行くと言う様な信心。昨日「やつなみ」という御本を送って頂きましたが、金光教鶴見教会。人の幸せと世のお役に立つ金光教鶴見教会と、これはもう何時もそんなふうに書いてあります。言うなら、キャッチフレーズですね。人の幸せと世のお役に立つ金光教鶴見教会。これは毎月出ている御本であります。
巻頭言の所に有難うという見出しで、教祖様が有難いというお言葉をお使いになっておられる御教えを、ここに抜粋して書いてあります。何時も頂いておられる所を纏めて、有難いという言葉が出て来る所だけを纏めてある訳です。読んで見ましょう。真に有難しと思う心。すぐみかげの始めなり。何を食うにも飲むにも有難く頂く心を忘れなよ。やれ痛やという心で有難し今、みかげをと云う心になれよ。
神の一言は、千両の金にも変えられぬ、有難く受けて帰れば、みやげは、船にも車にも積めぬ程の神徳がある。痛いのが治ったので、有難いのではない、何時もまめが有難いのぞ。信心は年が寄る程位が付く物じゃ、信心すれば一年一年有難うなって来る。人間は人を助ける事が出来るのは有難いという事ではないか、人の難儀を助けるのが有難いと心得て、信心せよ。
これだけ有難いという言葉を使っておられる御教えがあるという事です。そこでその有難いの程度なのですけれども、それが色々あります。その有難いが愈々本当の物になって来る。昨日は例によって、月末の御礼信話会で御座いました。皆さん色々お話を聞かせて頂きました中に、すぐそこの永松さんと言う方がおられます。時々お参りになるのですけれども、この頃毎日お参りになります。
それにこの度、息子さんが大学を出られて、東京の方へ就職をされる事が決定した訳です。本人は大変希望に燃えて行くとこう言っている。所がこの方はもう人に顔を合せると言う事が嫌い。人にものを言う事が嫌い。道を歩きよっても向こうの方から人が来よると、クリッとひっくり返って家に帰んなさるくらいな性格な方です。それがお母さんのもう悩みの種である。そういう性格の一人息子さんです。
ですから、東京辺りのしかも、息子さんは丸の内ですか、大きな会社に勤められる訳なんですけれども、とてもこの人がそういう人の中に混じって出来るだろうかと思うたら、もう毎日毎日が思うと涙が出る程に、その事が心配になってたまらない。それでこの頃暫く信心を止めたという訳じゃないけれども、遠ざかっておりましたけれども、その事の心配の余りに、お願いに見えられた。
不思議な事ですね。信心というのは。「真に有難いと思う心。すぐにみかげの始めなり」どこがどういう切っ掛けになったかは知らんけれども、有難うなって来る。あんなに心の中に心配であった、不安であったと言う心が、不安が無くなった。昨夜も、近所の御信心をなさる、熱心に導かれた久保山さんと言う方を、帰って誘うて、今晩はおかげ頂きましょう。信話会におかげ頂こうと言うて、今日も参って来たと。もう心の中に心配で心配でたまりませんもんですから。
もう毎日、何か御用しておるけれども、主人から「お前は毎日何ばしよるとか。」と言われる様に、仕事がはか行きませんでしたのが、心にゆとりが出来、安心が出来心から有難いと、まあ信心の、本当の有難さと云う物がです。少し解り出したら、仕事がもう楽しうしてから、はか行って、たまがる様に、仕事がはか行くと云う様な発表を、昨日なさっておられました。
ですからこれを例えば、皆さん信心が日々出ておるかなんかでしたら、子供さんを東京に、例えばいかにやってもです。どんなに内気な息子であってもです。神様にお取次を頂いて、お願いをしての事であるから、そんなに仕事が手に付かんごと心配になると云う事はなかろうと思う。少しお取次を頂いておかげを頂いておる。日々の言うならば、信心体験を持っておられる方ならば、むしろ御礼ばかりを申し上げておると云う様な、おかげで良い所に就職が出来た。
おかげで大学を卒業さしてもろうたと、もう御礼を申し上げる事ばかりでしょうけれども、さあそこが信心の言うならば、始めて信心。ただ信心とはお願いする事だけ。そしてそのお願いが成就したりしなかったり、まあ神様も当てになると思うたり、当てにならなかったと思う様な程度の所からです。どこがどうなったか分からんけれども、お取次を頂いて自分の心の中に安らぎが出来て、喜びが出来て来た事が、日々の家業の上にも、そうして現われてくる事が有難い。
まあそれが本当の信心生活だね。それが育って行く事が、いよいよ信心生活だねというて、まあ、お話した事でした。だからもちろんそういう一つの体験をですから、その有難いというのが、育って行かなければならない。何を食うにも飲むにも有難く頂く心を忘れなよ。これは食物だけの事ではない。何を頂くに致しましてもです。食物というのはいわゆる、生きる為の物。
生きて行く上の物が、まあ食物でありましょうが、私共が生きて行く上に、愈々幸せにならせて頂く為に、何を食うにも飲むにもと云う事は、どう云う事があってもと云う事です。どう言う問題が起こってもと云う事です。それを有難く頂く心を忘れなよと云う風に、次の信心に進んで行かねばいけないと。なるほど有難く頂けない事もある。食物の中にも、嫌だ好かんと云う物もあるけれども、そこんところを、好きになる稽古をするのである。こげな苦いものは飲もうごとない。
こんな臭い物は食べたくない。と言うて押しやって、向こうへやる事はせずに、例えばニンニクの臭さも、いわば頂いとるうちに、ニンニクの味わいが解って来る。体はおかげで、強うなる。こんな苦い千ぶりのごたるものは飲まんとは言わずに、飲ませて頂いておると、愈々胃腸が健全になって来る様にです。苦い問題も臭い言うなら事柄もです。それは有難く頂く心、有難く頂く心を忘れなよ。これは言うなら前の松永さんの信心からいうと、信心の真の有難さに触れさせてもろうた。
その有難いのが、そういう稽古によって、愈々稽古が積まれて行く事になる。やれ痛やという心で、今みかげをと云う心になれよと。やれ痛や例えば痛い事が起こって区る。言わば苦しい事が起こって来る。けれども今こそおかげを頂いとる時だ。今こそめぐりのお取次を頂いとる時だと。これは有難いと思う内容。言うならば有難くならせて頂く具体的なこれは表現です。痛い事がある。人間には様々な廻りがある。
難儀のもとがある。その痛い苦しい思いをする時にこそ愈々今こそ、廻りのお取り払いを頂いておると思うて、痛い事は痛いのだ。けれどもそれだけのお取り払いを頂いておると思うて、お礼を申し上げて行くというのである。神の一言は千両の金にも変えられんと。有難く頂いて帰れば、土産は舟にも車にも積めぬ程の神徳がある。皆さんがこうやって、お話を頂いて下さる。私は毎日毎日がです。言うならば、神様が自分の心の中に、何時もこう働いておって下さっとるという実感を持たなければいけません。
お参りしとる時は神様だけれども、家に帰ったらもう、神様を忘れておるという事ではいけません。その所を仰るそれを毎日毎日頂くその御理解そのものをです。どこでも良い。それはもう、一人一人違うかも知れません。私が、「ここを」と思うて、強調してもです。分からない場合もあろうし、私がうかつに話しておる事の中にも、有難いと思う事があるかも知れません。
又教えのこうあらなければならないと頂いた事をです。一つでも良いから、自分の心の中に掛けどうしに掛けるという事。昨夜、御祈念を幹三郎が当番でしたから、昨夜の御祈念をしておりました。御祈念の後の御理解の中に、こんなお話をしておりました。以前は、心に捕らわれるという事。例えば心配事なら心配事に捕らわれる。何かに捕らわれる。我情我欲に捕らわれる。
捕らわれておるという事は、もうおかげが頂けない事だとこう言うております。こうやって捕らわれると、これを握っとる。それに捕らわれておる。だから、次のものが取られない。その捕らわれておるものを放さなければいけない修行さして頂いとるという意味の事を話をしてましたが、昨日はやっぱり同んなじ、その捕らわれなければいけないという意味の話をしてました。先日からも村内の友達の方と、二・三人で福岡に一晩泊りで福岡ですか。旅行致しとりました。
まあその時の事だろうと思うんです。例えば泊り掛けでよそに出ていった時なんかです。それは例えばお酒を飲んだり、その楽しゅう遊んでおる時でも、そういう時フッと自分の心の中に、合楽が恋しゅうなって、早く帰りたいという心がすると。捕らわれる事は、有難いという話をしとりました。とらわれている事。だから場合にはです。こんなに信心。神様に捕らわれてしまっておる自分がね。場合にひょっとすると、重荷になる事もある。寂しくなる事もある。
けれども外に例えば外出しておってもです。どんな面白い事をしておっても、フッと合楽の事が思うたら、早う帰りたくなると云う様な心の状態。そういう意味においてです。やはり捕らわれる心というのは、まあ有難いと云う様な事を話とりました。私も、ここから聞かせて頂いて、本当に有難いとこう思う。言うならば捕らわれると言うと、まあいけない様ですけれども、今日一日のです。支えにならせて頂く様な思いをです。例えば日々の御教えの中から頂いて、その事に捕らわれ過ぎても良い。
善導寺の原さんが、こちらに自転車でお参りになっている時分に、もう有難い有難い。もうお参りする事が有難い。自転車をこう踏みながら、金光様有難う御座いますと言って、目をつぶってお礼を言われる途端に、溝の中に飛び込まっしゃった。だからそれを昨日申しましたね、それを有難い有難いと言うて、自転車が溝の中に飛び込んでも良いのだと。有難いと言うて飛び込むんだから、というくらいに捕らわれると云う事が、愈々有難いと云う物を募らせる。
愈々稽古の内容としてです。私共が、どれ程神様の御教えなら、御教えに捕らわれておると云う事を一つ、思うて見なければいけません。痛いのが治ったので有難いのではない。何時もまめなのが有難いのぞと。ここに至って来る時に、もう愈々私は素晴らしいと思うです。お願いをする事が成就したから有難い。勿論それも有難いけれども、願う事が無い程しに、おかげを頂いておるというその有難さと云う物は、愈々本当の物になって来た時に、私はもう生神様だと思うです。
おかげを頂いとるけれどもです。極楽と思うけれども、有難いという心も、何も解らんのだったら、これは愈々神様に対して御粗末御無礼であり、信心不足内容のない信心だと云う事を言わなければならん。信心は年が寄る程位が付く物じゃ。信心すれば一年一年有難うなって来る。果たして、自分の信心が一年一年有難うなっているか。行っておるかどうかという事を、絶えず、検討して行かなければいけない。もう合楽に御神縁を頂いて十年にもなるけれども、一年一年有難うなっていない所にです。
有難いという心を育てて行く所の精進をしていないという事を悟らなければいけない。昨夜、安藤さんが発表しとられました。もう私は信心の落第生です。もう本当に、それこそ、落第生でつまらんと思いよりましたがです。落第をしたおかげで、人よりも、一年で卒業する所を、二年も三年も掛かって、ようやくと云う様なおかげを頂いて、そう云う体験を持っとるおかげで、先月からあの地区で、部落の方達が集まって、初めて信心共励会の様な事をした。
そしたら皆さんが皆集まって来られて、安藤さんの信心によって導かれた方達ばっかりですから、それは素朴な、言うなら幼稚な共励会でした。けれども、私が落第生であるおかげでです。自分の失敗して来た話を、沢山させて頂く事ができる。だから落第生も又有難い。落第しながらも有難いという心は、段々人が一年かかる所は一年も二年もかかって、おかげを頂いておると言う事はです。
安藤さんが年々じゃなくてもまあ何年おきかではあるけれども、自分の信心が有難いと言う物を、確認して行っておられる事だと、私は思うです。落第しながらでも有難うなって行っておれば、私はそれでいいと思うです。急速に有難うならなくてもです。三年がかり五年がかりでも良いからです。成程三年前の自分と、三年後の今日の自分と言う物が、有難いという内容が、変わって来ておる事が分かるくらいなおかげは頂きたいです。どうでしょうか皆さん。
それを本当に人に話してあげられる。これから新しい示現活動とさせてもらはなければならん、自分の進んで来た信心を語って、人に示現活動をさして頂けれる様な、おかげが頂けれる様になっておるでしょうかと言う事です。人間は人を助ける事が出来るのは、有り難い事ではないかと。人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよと仰るのですから、いよいよ自分が有難うならなければ。有り難い言うならば示現活動は出来ません。御導きは出来ません。
生神とはここに神が生れると言う事であってとか、又はここに参っておる人が、皆神の氏子じゃと教えておられます。信心さして頂くものは、尚そこの所の自覚がはっきりして来なければなりません。そして世の中に本気で有難うなろうという人達が、一人でも多くなって行くならば、世の中の難儀世の中の問題というものは、もうそこだけでもなくなって行く道理です。
そういう信心をいわば愈々頂き、しかもそれを愈々人にも伝えて行く所のおかげを頂かなければならない。金光様の御信心は先ず自分が神の氏子である。神の氏子であるという自覚から始まる。そしてどこから何が分かったから、こんなに安心が出来たのか。喜びが湧いて来るのか解らんけれども、信心をさして頂く内にです。有難いという芽が必ず出る。これはもう絶対に出る。ですからその有難いという芽をすぐ摘んでしまう。踏みにじるような事をする。これではいつまでたっても有難くはなれない。
昨日朝倉郡の方から、親子で参ってきた方がありました。親には親の悩みがある。子供には子供の悩みがある。所が時間の都合で中々お参りが出来ない。そこで夜中にでも参って良いでしょうかとこう言う。そりゃ良いよとあちらの東脇殿の方は何時も開いているし、私ももう三時半には、ここに出てきているから、何時お参りしても良いよと言うておりましたら、今朝からか参って来ておる。
ここに御初穂があった。参って着てるんです。恐らく夜中に一人御祈念して、帰ったに違いありません。その御初穂に書いてありました。ペンで細々と今日から、いうならお参りを始めたいと思います。どうぞ神様にその事をお願いして下さいと書いてありました。皆さんも例えば今日の御理解を頂いたら、いよいよ有り難いという芽が出た。そこからですこの芽を踏みにじるような事がない。摘み取るような事のない。
そういう信心をです。いよいよ有り難くならせて頂く為の信心をさせて下さいという願いが、私は本当に信心を頂いて行く者の姿勢だと思うです。ただこの事をお願いして下さい。どうぞ病気が治ります様に。ああです様にという願いだけに、明け暮れておったんではです。何時まで何十年たったって、有り難い事にはなりません。そん時、自分の思う様になった事だけが、有り難いと言う様な信心では、いわゆる生神に向かうという信心にはなりません。だから先ずはです。
今日から夜中にでもです。こうしてお参りさして頂こうと発心しただから、その事が崩れない様に、どうぞ神様にお願いをして下さいという。そういう願いが、先に立てられなければいけないと思うそこからです。私はこの御理解第十八節は生きて来ると思う。お互いが皆んな生神を目指さして頂く。そして世の中に一人でも多くの人に、生神を目指す信心を伝えて行くというのが、合楽示現活動に参画すると言う事だと思います。